職人と商人
ぼくにはもう遅すぎるが、写真をやっていてこれからの人は覚えておいても良いのではないかと思う。”商人がいいですか,それとも職人がいいですか”。
はげしく違和感を感じる。
職人と商人が対立項だなんてロマンティックでセンチメンタルすぎる。士農工商ですか?
たしかに職人は妥協しないだろうし、商人(プロフェッショナル)は妥協するだろう。それによって生まれるものも違うかもしれない。しかしプロフェッショナルが妥協するのは、職人の評価軸は自分自身であり、プロフェッショナルの評価軸は他者だからだ。それは単に違うだけで比べるものでもない。逆に職人であることの社会性の乏しさに気付かないのは団塊の世代特有の未来に対するバラ色感のようにおもえる。これこそが団塊の世代の汚さと言うのに。お金を儲けることが悪いことのように子供には言っておきつつ裏で集金システムを作り上げたジェネレーションに対する今の世代の嫌悪感や、その未来に対する絶望感、時が過ぎるにつれ絞り込まれていく負のスパイラルとかそういう時代の機微や感覚を読めないというのも、また職人の一面であるといえるだろう。
ホリエもんという踏み絵を踏み絵ですらなくした時に、この国の未来へのスピードを彼らが0にしたのだ。*1またスピードを上げる為には何十年もかかるかもしれない、と僕は思っている。