「死刑」 森達也
- 作者: 森達也
- 出版社/メーカー: 朝日出版社
- 発売日: 2008/01/10
- メディア: 単行本
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考えれば考えるほどぐだぐだになる。とりあえずあげてしまえ(なげやり)
死刑の存置・廃止のロジカルな問答は意味をなさない。ロジカルには廃止の方向に進むことは間違いない。でもひとは論理だけじゃ動きはしない。人を納得させる論理には、いつだって気持ちのバックグラウンドが必要だ。
どんな人間だって殺したくないし生きていて欲しい。生きる価値のない人間なんて世の中にはいない
と、自分のかけがえのない人が身勝手な理由で殺されたときにもいえるのかどうか。ぼくはきっと犯人をこの手で殺したいと思うだろう。そしてきっと実行する勇気のない自分に幻滅することだろう。
光市事件が起こったとき、被害者である彼の境遇と被告である少年の身勝手さに、暴力がつくりだす無法とそれによって簡単に自分の世界は壊れるのだということを想像した。(別の)被害者の「同じ空気をすっていたくないんだ」というひとことのやるせなさ。それは死刑が実施されたとしてもかわることはない。
その一方で自分が冤罪で殺されるという国家による暴力の前に個人に対抗手段なんて存在しないに等しい。国家、といえばあいまいもことしているが、結局はまわりにいる人たちすべてのことだ。すべての人にネガティブな感情をぶつけられる状況に正義が自分にあるとしても自分は耐えられるのだろうか。
自分が関わる世界によって答えはきっと変わる。今の僕の気持ちはぎりぎり存置に傾いているけれど、それは人を殺すことはやむを得ない場合がある、生きる価値のない人間がこの世には存在する、と公言することと同じことだ。それでもいまのぼくはに冤罪による誤審の恐怖より、かけがえにない人が殺されたときの感情の行き先の方がリアルに感じる。廃止を叫ぶには覚悟が必要だ。ぼくにそんな覚悟はない。
そういいながら畠山被告の無期懲役判決に対するワイドショーの「なんで死刑にならないんだ」という無責任な放言を聞いていると、「おまえら自分で被告に首にロープかけてるんだっていうことわかっていってるのか?」といいたくなる程度には廃止にも傾いているのだ。