私写真?

写真において「私」が「世界」よりクローズアップされるのはなぜだろう?という疑問は前から持ってた。

一つのこたえがアサヒカメラ2007年2月号 p162のボリス・ミハイロフのインタビューに会った。聞き手はホンマタカシ

写真と言うのは常に「部分的に自分」なんですね。というのは、作品の一部だけが自分で、あとの大部分は世界でおこっていることを反映するものですから。写真は常に現実、リアリティーというものと結びついている。

「私」は社会の一員です。ソビエト時代に特に感じたのは「私」というのは社会の一員以外の何者でもないと言うことです。自分の写真をとっても、自分を通して社会の話をしているんですよ。自分を撮ると言うことは自分のドキュメンタリーをやると言うことです。(snip)私の作品には、大きい小さいはあってもどんな形でもどこかで自分が参加しています。それは一般的に言うドキュメンタリー的なものではないかもしれないですが、自分に関するドキュメンタリーを作品から完全に取り去ることは不可能ですね

あー。自分が写真が好きなのは、現実を切り離すことが出来ないからかも。
なんか納得。