「写真家に肖像権はない」のか?

― 中国系米国人に8万通嫌がらせメール - 社会ニュース : nikkansports.com

ネットに個人情報を出すだけで、べつになんともない市井の人がこういう目に遭うというのが今の社会だ。ネットと現実の二重性とよばれた現象はすでにかなりの部分で公約数を得つつある。だからこそ、個人特定するような情報をネットに載せるのは非常に危険なのだ。

さびしんぼさんたちの独り言の接続によるコミュニティに依存することで、その帰属意識を元に「こころの安定」を得ているのだとすれば、あまりにも危険だ。ネットによってすべての接続が個対個になってしまったが故に、大きな傘のしたで安穏と他の人の意見のになびいていればよかった日本的ムラ社会からは正反対の状況にさらされる状況となってしまった。クラスで声の大きい人の意見に「わたしも○○さんとおなじですー」などといっていた人にはいづらい世界なのである。*1。それは個が成熟しているかどうかを絶えず人の目にさらす状況であり、それ相応のストレス下にあるともいえる。だが個として立てない人ははいないのも同然、いやもっと積極的に言えば「存在しない」のだ。存在しないモノが独り言をたれながしても、単にリスク以外に得るモノはない。大きな魚に食べられる小魚のように、資本主義社会で唯一口を開けていればあたえられる「消費する私」でいればいい。


そして個対個という意味で言えば、それは「写真」もそうだ。
写真は常に作品という個と見る側の個の化学反応だった。

*1:ひとりごとを拡声器でしゃべっていて、かつそれを簡単に見つけることが出来るのだから、そりゃいづらいだろう。mixiのクローズドな安心感という幻想がいまだ一人歩きしている