実名であることに意味はあるのか?
「匿名で文句言うな」が「ちゃんと向き合って物を言え」という意味であれば*1、それが「匿名」である必要はないんじゃないだろうか?ちゃんと接続性が確保されて発言に責任を持つという当たり前のことが出来る状況であれば、「匿名」と呼ぶ状況(ハンドル名やニックネームなども含む)でも、きちんとした議論を行うことは可能だと思うし、それによって発言者のバックグラウンドによるノイズも省けるのではないだろうか?*2
「自分の発言に責任を持て」という意味で言えば、逆に「なぜ、匿名にする必要があるんだ?」が成り立たなくなりつつあるのではなかろうか?。個人を特定する情報をネットに出す(=匿名ではない)ことによって背負うネガティブなリスクは、すでに記名で責任をとることよりも大きくなってしまったとおもう。
と、ここまで書いてこういうのを読んだ。
http://blog.japan.cnet.com/sasaki/2007/01/post_10.html
NET空間では、実名がさらに希薄になります。『発言者が実名であることを認証するシステム』が事実上ないので、『実名』と称するものが意味を持ちえません。
もっともらしい東京都千代田区の鈴木太郎さんと、いかにも仮名の港区の匿名希望さんとの間に本質的な差はありません。住民票コードの数字列のほうが存在の証にはなりますが、それとて、発言者のものであると確認しえないので、無意味であることにかわりはありません。
すなわち、NET空間では実名と匿名の境界が曖昧で、名前は記号にしか過ぎないのです。
たしかにこれはもう20年以上ネットに関わってきた実感からすれば、そのとおりだ。本名よりもハンドル名に蓄積された発言の数々こそが人格をかたちづくる。実名とリンクした情報など存在しない。つまりネット上(オンライン、オフライン問わず)ではハンドル名に付随した人格の方がリアルであり、実名にリンクした人格はリアルではない。つまりこういった問題自体がもう問題ではないのかも知れない。
実際「本名」と「匿名」の境界はすでにあやふやだ。実名で書いたとしても「本当に」実名だとどうやって証明するのだろう。写真がフォトジャーナリズムの時代を経てリアルさを失ったように、ネットと現実世界の間でのリアルとは、自分そのものではなく、わたしが関係した他者の中に蓄積された「わたし」によって形作られた外骨格だけかもしれない。つまり「わたし」のリアルは、わたしの中にはなく他者のなかにしか存在しないのかも。じゃ、ここにいる「わたし」はだれなのだろう。