海野未来雄「MARGINAL LAND」

こんなことをいうと勘違いされるかもしれないけど、僕は人間が人間らしい生活を送る上で、信じる対象がある、自分を見守っている存在がいる、自分は一人ではないのだと感じられることが、人が人らしく生きている為に必要だとおもっている。人は自分を厳しく律するということがそんなに得意ではない。自分を律することが出来ないと言うことは罪をいつも犯しているということだ。つまり「赦されなければ生きていけない」人はその絶対的な存在につねに赦されることで日々の憂いを最小限にし生きていく。*1


そういった対象を僕は「自然」に求めているようだ。それは「信じている」という動詞ではないのだけれど、「神」でもなく「人」でもなく、ただただ自分に絶対的な無関心をもち、全く違ったシステムで生きている存在。グループ展で撮った写真は今思うとそういった自分たちとは全く別の世界にある現実、人の営みなど相手にしない植物と言う自然、死ぬことをいとわない植物と言う巨大な生、人間に対する絶対的無関心といったものだったとおもう。*2


海野さんが撮る「安易で陳腐なヒューマニズムなど通じない荒野」に共感するのはそういったものを自分が求めているからだとおもう。だがその先に海野さんは「ヒューマニズムを超える優しさ」を見通していた。日々の生活で起きる様々な「葛藤」を飲み込み、そこに「ある」ということで人々を赦していく「大地」の母性は決して「神」や「人」ではない。罪を肩代わりしてくれる超越者でも、慰め合ってくれる自分と並列化できる他者でもないのだ。だからこそ「大地の赦し」は本当の意味での「優しさ」をもつのだとおもう。


次は「日本」で撮ると伺った。この日本の中にどのような赦しがあるのか。海野さんが見せてくれる光景をわくわくしながら待っている。

*1:その存在のまなざしが自分の境界線をはっきりと描くからこそ、逆説的に自己を確立できる。

*2:当時はもちろん言葉になんかできなかったし、言葉になっていないものももちろんあるし、あの7枚の写真で語りきれている訳はなく、そこが「つづきがある気がする」とKさんにいわれるゆえんではあるとおもう。